「最近思うこと」ぼけてなんかいられない。

                                                                                            来間 幸夫

一.ぼけてなんかいられない

「神は、人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1:27)

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。・・・」と。

初めに、神は、光と闇を創造し、大空を海と地を、海の生き物、大空を飛ぶ鳥たちを、また、地上の生き物をそれぞれの種類ごとに創造された。そして、最後に神は、人をご自身のかたちとして創造された。

 神さまは、実に、素晴らしいクリエイタ―であります。神さまの似姿に造られた私たちも、神さまと同様に、本来、クリエイターであります。われらも、クリエイティブに生きるものでありたい。

 人は、ひとりで生きていると「ヒト」ですが、喜ばれるように生きていると、人と人に生きる「人間」に変わると言われます。人の間に生きるということは、「自分が必要とされている」ということ。人の間で喜ばれる存在になることは、神さまの求める善き働き人となること。私に何ができるかをクリエイティブに考える僕となりたい。

 

二.人生を丁寧に生きる

これまで、私は、少し乱暴に生きてきたように感じます。

その為、数多くの持病を持っています。睡眠時無呼吸症候群、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、鼠経ヘルニア、白内障、緑内障、などです。若かりし頃、一時急性アルコール中毒症になり、一命をとりとめた事もありました。各種病気を持っております。

 第二の人生で、思いがけず、医療機関で働く事になり、医療全般に対して開眼したように感じます。それで、残された人生を丁寧に生きることの大切さを思い知らされました。

OMBS(御茶ノ水医療関係者聖書研究会)の仲間の一人が、以前ジュネーブのWHOに勤務しており、現在全国薬剤師会の会長ですが、彼曰く、「健康の定義は、健康とは肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない」としている、欧米を中心とした国々は、スピりチュアル(霊的)も加えることに、賛成していたが、いくつかのアフリカの国々では、呪い、占い、迷信など邪教と誤解されることを警戒してスピリチュアルは、健康の定義には含めないことにしたようです。

 

三.大地をしっかりと踏みしめて生きる(正しい歩き方の実践)

私の足は、偏平足で、両足の親指の爪が巻き爪になっていました。長い間そのまま、ほっておきましたら、爪が指の肉にめり込んで、強い痛みを感じるようになりました。仕方なく、巻き爪治療院で治療することにしました。幸いにも、近くの治療院で、数か月かけて治療できました。麻酔は一切使用しませんでしたので、痛さを耐えての治療でした。

原因としては、歩き方に問題があるそうです。足の指をもっと沢山動かす使うことの大切さを教えられました。「かかとから着地して、つま先でしっかり大地をつかみ、つま先で離地するという基本的な歩き方の実践でした。」身体の重心や体重移動が正しく出来てなかったようです。足のつま先を感じる歩き方、足全体に体重をのせて歩く、風を感じるように、足のつま先を感じて歩くことにしました。目がど近眼なので下向きの姿勢(前傾姿勢)になりがちですが、天から頭を引っ張られているように歩くように努力しています。

 

四.おまけ

ふくらはぎが第二の心臓、腸は、第二の脳、腎臓は血液の塊。鼻呼吸は、天然空気清浄機と言われております。

 また、血液の流れについて足の先にも、血液は流れている。本来人体を清める命の川の流れであり、全身にくまなく、滞りなく、絶えず流れている。そして、肉の命は、血の中ある。

(レビ記17:11)血流は、常に滞ることなく、生き生きした命の泉でしょうか。

 

     最後に、認知症予防の要は、①知的活動、②有酸素運動、③野菜中心の食事のようです。

     年配者へのアドバイス:「転ぶな、風邪ひくな、義理をかけ」と言います。

     福音診療所院長(88歳現役医師)の言葉です。

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来年以降(80歳から)の私の働き方

                                                                                                                                    伊藤紘一 2022/8/23
60歳定年直後に、ひとり企業は、今年で20年目を迎えています。

名前は、ベンチャー育成メンター企業:有限会社「勇元(ユウゲン)」です(勇気と元気の意味)。

また、英語ではYOU GAIN と発音し(ユウゲンとも読む)”貴殿が得する” ということ。

さらにユウゲン会社を加えれば、三つ巴のジョークなんですよ!(笑) 


私は来年1月30日が誕生日で80歳になりますので、その時点で会社は終了し、NPO(ボランティア)として、幅広く、お困りの方々や従来からのお交わりのある非キリスト者の”善き友人”として、”お助けマン”になる予定です!
主のご加護をお祈りください!!!

*昨年秋の私の講演YouTube動画
 グローバル教育研究所の昨秋の深堀勉強会で、私が講師を務めた時の動画です。
 お恥ずかしいのですが、何かのお役に立てば幸いです。
 下記クリックしてください。
 質疑応答込みで2時間半という長尺ですがイヤになったら観るのを放棄して結構です!
 「倫理資本主義のマルクス・ガブリエル哲学」
   限定公開
   255 回視聴2021/10/14
   https://www.youtube.com/watch?v=zWhy4hd6LSU

 In Christ ,

​高齢者の健康法

​来間 幸夫  2022/3-17
グループハーベスト健康21か条.jpg

説明
17のねこ体操床に仰向けに寝て、前足(両手)と後足(両足)を天に向けて、ぶらぶらさせる運動です。加えて、猫のように床に前足・後足とも、四つんばりになり、背中を持ちあげたり、背中をひっ込めたりする運動です。

17の天つき体操両足を開いて地面に踏ん張り、両手で重量挙げのように、天(空)に向かって、天を持ち上げるような体操です。両手をあげたり、おろしたりします。両手で天を突き上げる格好です。(戦前の体育にあったようです)

18のお相撲体操土俵でのお相撲さんのしぐさそのものです。四股を踏む体操です

与えることの幸い

                      宇都宮カレブの会   

                                  伊東 康則

 幼い頃に読んだ本の中に、今でも忘れられない物語があります。それは、アイルランド出身のオスカー・ワイルドの作品で「幸せな王子」という童話です。話の内容は・・・

 

  ある町の中心部に高く聳える柱があり、その上に王子の像が立っていました。王子は全身が金箔で覆われ、目はサファイア、剣には赤いルビーが輝いていました。その 王子を、町の誰もがうっとりと見上げていました。王子は立ったままで動くことはできませんでしたが、あちこちを飛び回って様々な話をしてくれる燕に、苦労や悲しみの中にある人々のために、自分の持っている宝石や自分の体を覆っている金箔を分け与えていくという自己犠牲の物語です。最後は、宝石もなくなり金箔の剥がれた姿に なった王子と、南に渡っていく時期を逃して寒さに凍え死んだツバメが残ります。みすぼらしい姿になった王子の像は、心ない町の人達によって溶鉱炉に投げ込まれますが、鉛の心臓だけは溶け残り、燕の亡骸と一緒に捨てられました。

天国では、下界の様子を見ていた神様が天使に「この街で最も尊いものを二つ持ってきなさい」と命じ、天使はゴミ溜めから王子の鉛の心臓と死んだツバメを持ってきます。神は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になりました。

 

 ・・・というものです。この物語を読んだ幼いときの自分は、王子の物を運びつつ命を落とす燕や、みすぼらしい姿となって町から撤去されてしまう王子が、なぜ「幸せ」なのだろうか?と思いました。でも今では、作中、最後に出てくる「燕はこの天国にいてもらおう。」「王子はこの黄金の街にいてもらおう。ここで、いつまでも私を称えて欲しい。」という神様の言葉から、使徒行伝20章35節の「受けるよりは与える方が幸いである。」といった御言葉をテーマに、作者はこの物語を描きたかったのではないかと思うようになりました。

 

 ここで自分のことを振り返ってみたいと思います。

 身の回りにいる人が困っているときに、自分の時間を割いてお手伝いし、そのことで相手が喜んだりお礼を言ってくれたりしたときに、お役に立つことができて良かったと思います。しかし、相手が何もお礼を言わなかったり、自分が大変な思いをしているときに知らんぷりされていたりすると、不満が溜まっていきます。これは、「人」に見返りを求めているからなのでしょう。与えることの幸いは、自分が与えた「人」からの見返りを期待できるからなのでしょうか?

 

 聖書では、マタイ25章40節に「最も小さい者達の一人にしたのは、私にしたのです」とあり、ルカ6章38節には「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなた方は、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」と書かれています。そして、マタイ6章20節21節に、「自分の宝は、天に蓄えなさい。そこには、虫も錆もつかず、盗人が穴を空けて盗むこともありません。あなたの宝のある所に、あなたの心もあるからです。」とあるように、「与える」或いは「献げる」対象は神様であるという意識をもつことが重要であり、その報いは神様が用意してくださっていることが分かるのです。

 

 では、私達は何を「与える」べきなのでしょうか?

 ヨハネによる福音書によると、3章16節には「神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあり、5章21節には「父が死人を生かし、命をお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者に命を与えます。」とあります。さらに、マタイによる福音書10章8節ではイエス様が弟子達に向かって「あなた方はただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と言って、御国が近づいたことを伝え、病人の癒しや悪霊払いをするように命じています。

 これらの御言葉から分かることは、私達が神様から受けた恵みや福音を他の人にも分け与えること。つまり証しや伝道をしつつ、病人や悩みを抱える人には寄り添って、癒しや平安を御名を通して祈ることは「与えること」に繋がるように思います。このことを象徴するような出来事が、使徒行伝3章2節から8節に書いてあります。その内容は次の通りです。

 足の不自由な男が、神殿の「美しの門」の所で施しを求めていたとき、ペテロがその男に向かって言ったのは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」という言葉でした。すると、足の不自由だった男は、躍り上がって真っ直ぐに立ち、歩き出しました。そして、歩いたり跳ねたりしながら、神を賛美しつつペテロやヨハネと一緒に境内に入っていきました。

 という内容です。「わたしにあるものを上げよう。」それが「イエス・キリスト」だったのですね。

 

 次に「与える」ときに必要なことを考えてみたいと思います。私が、心を動かされた、マザー・テレサの次のような言葉があります。

  

  私は小さな子ども、ヒンズー教の坊やが大きな愛を持って教えてくれたことを、忘れることができません。カルカッタの私たちの所には、お砂糖がありませんでした。 そして、四歳になる小さなヒンズー教の坊やが、マザー・テレサの所にはお砂糖がないという話を聞きました。坊やは家に帰って、両親にこう言いました。「僕、これから 三日間、お砂糖はいらないよ。マザー・テレサに上げるんだ。」三日後、坊やは両親に 連れられて、私たちの所に来ました。手にはお砂糖の入った小さな瓶を持っていました。坊やのお砂糖を。坊やは私の名前もうまく言えないぐらいでした。でも、知っていました。そして、大きな愛をもって愛しました。痛いまでに愛したのですから。三日間お砂糖なしで過ごすのは、随分辛かったでしょう。でも小さな坊やは、与えることと大きく愛することを、どれぐらい与えられるかではなく、どれだけの愛を込めて与えられるかであることを教えてくれました。

 

 これは、マザー・テレサが来日したときの講演で語られたエピソードです。第Ⅰコリント13章3節にも「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」と書いてあります。つまり、与えるときに必要なのは、愛を込めるということなのです。

 

 今までの自分を振り返ってみると、親から衣食住を与えられ、愛情を受けて育ちました。入学してからは教師や友達と巡り会い、大学では、ナビゲーターを通して福音が与えられ、神様の愛を知ることができました。その後も、職場が与えられ、人生の伴侶、そして子や孫も与えられました。霊的にも、精神的にも、物質的にも、実に多くの物を戴いてきたことだなあ、と感じています。このような中から、自分にとって「与える」とは、家族や信者である兄弟姉妹、職場の同僚や生徒のために「健康、安全、平和、幸せ、そして神様による救い」を祈り、証しをし、機会を捉えては御言葉を伝える。特に、職場に遣わされている時間が長いので、生徒や同僚のために、自分が受けてきた愛情、知識、技能などを時間を惜しむことなく、愛をもって喜んで与えていきたいと考えています。そうすることで、自分が地の塩として世の光として働くことができ、神様の栄光を現すことに自分が少しでも役立てることを願いつつ歩んでいきたいと思います。

 

 アルベルト・アインシュタインは「人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」という言葉を残し、

 三浦綾子は、「続・氷点」で、「『一生を終えてのちに残るのは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである』これは、ジェラール・シャンドリという人の言葉の引用です。」と述べています。 

  また、ヘルマン・ホイベルスは「人生の秋に」という書物に「神は最後に一番良い仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛する全ての人の上に、神の恵みを求めるために」と書いています。

 

 これから残された人生の中で、どれだけのことをどれだけの人に与えることができ、天に宝を積むことができるのか、わくわくしてきます。そして最期には、愛する人のために神の恵みの祈りを与えることで御国に迎え入れて頂けたら、どんなにか幸いな人生といえることでしょう。

 

 「受けるよりは与える方が幸いである。」この言葉は、パウロがエペソの教会の人々に、お別れの挨拶として語った言葉ですが、私達もまた、「受けるよりは与える方が幸いである。」を、心に刻んで生活していきたいものです。 ​